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古代史の「妄想と捏造の歴史観」を排す

横井先生の『日本政治精神史』 2014-02-17

ここで私なりに古代史の問題について反論というか問題提起をしておきましょう。
①卑弥呼問題、②天皇家の出自は朝鮮半島ではない、③聖徳太子は外交の天才、の三点です。

①卑弥呼問題

卑弥呼の実像や邪馬台国論争がいまだ決着がつかない理由は、卑弥呼を天皇家と関係付けようとしているからです。天皇家と無関係という説から考察すれば、自ずと結論が見えてくるのではないですか。

なぜ、卑弥呼は天皇家と関係がないかという理由は簡単です。卑弥呼は三国志時代の魏から金印をもらい中国とは冊封関係にあったからです。冊封とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として中国の「天子」と、近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係だといわれていますが、卑弥呼は当時の魏に対し従属関係にあったわけです。

しかるに、天皇家の歴史をみると、中国との冊封関係に入ったことは一度もありません。とくに、聖徳太子の時代に弱小国日本でありながら当時の巨大帝国の隋と対等関係を要求したくらいですから。これは、当時の世界情勢からいくと驚くべきことなんですよ。以降の歴史も同様です。

ただ、人によっては、倭の五王の記述が、中国の歴史書『梁書』、『宋書倭国伝』などにあり、また、倭王武が宋の皇帝に上表文を贈ったことなどから、冊封関係にあったと主張する人もいるでしょうが、それらは、倭の五王と日本書紀の天皇にむりやり比定しようとしているだけで何の意味もありません。比定してもぴたっと当てはまらないはずです。その理由は、倭の五王が天皇家と無関係だからです。

もし、倭の五王が天皇家に関係しているのなら、当然、日本の歴史の正史である日本書紀にはその事実が記載されているはずです。さきほども述べたとおり、日本書紀には「一書に曰く」というスタイルをとっているのですから、必ず中国との関係があったならそのことは記載するはずです。しかし、その記載はありません。

歴史学者はおかしいのです。自分たちの国の歴史をないがしろにしつつ、外国の文献に依拠する。この姿勢は、現代の媚中派の国会議員や朝日新聞と全くの同類なのです。

②天皇家の出自は朝鮮半島ではない

江上波夫が「騎馬民族征服王朝説」を唱えて、天皇家の出自がとんでもないことになってしまいました。「東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて日本列島に入り、大和朝廷を立てた」という仮説です。これは戦後の歴史学界に衝撃を与えましたが、これと前後して、韓国の捏造歴史観が日本に流入しました。これらにより、あたかも天皇家の出自が朝鮮半島であるかのような風説がまことしやかに流れているのは誠に残念なことです。

しかし、天皇のご存在を考えるとこれは間違いであると考えます、なぜなら、天皇家のご存在は「民安かれ、国安かれ」の祭祀にあるわけですが、もとは、稲作文化を伝播することを使命とされていたがゆえの祭祀というのが本来的なおつとめではなかったかと推測しています。

たとえば、『日本書紀』の天孫降臨の段で、天照大神が孫の瓊瓊杵尊らに下した「天壌無窮の神勅」のなかに、「葦原千五百秋瑞穂の国(葦が生い茂り、永遠に穀物が豊かにみのる国)」と日本が稲作の国であるとされていますが、後半には、「吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし(神聖な稲の種を持たせるのでしっかり育ててみんなの食糧にしなさい)」と稲作の普及を述べている部分があります。天皇家と稲作、農耕文化とは切っても切れない関係で、騎馬民族とは最初からことなります。また騎馬民族から農耕民族になんて簡単に切り替えられるものでもありません。

実際、天皇家では、現在でも新嘗祭(即位のときは大嘗祭)が毎年11月23日に行われて五穀を天照大神さまに捧げて感謝の意を表しています。「勤労感謝の日」と名前が変わったのはアメリカ占領軍の命令によるものです。

このように、天皇家は稲と深い関係の上にありますし、そもそも、稲は朝鮮半島経由で来たものではありません。逆に、日本から朝鮮半島に伝わったという説が主流になっています。ですから、天皇家の出自が、朝鮮半島起源は真っ赤な嘘でることはすぐにわかります。このことは、朝鮮半島に、任那の日本府があった理由でもあるわけです。

それに付言すれば、日本の音楽のリズムは4拍子です。これは農耕民族のリズムです。しかるに、朝鮮半島の代表的音楽アリランは3拍子です。3拍子のリズムは馬の上に揺られるがごときリズムになります。3拍子は騎馬民族のリズムとされています。なお、朝鮮半島は常に北方の騎馬民族に侵略されている歴史です。

ちなみに日本人は3拍子が苦手です。ウインナー・ワルツのリズムを取らせて見ると、そのリズムがなかなか取れません。農耕民族の証拠なのです。

③聖徳太子は外交の天才

日本は中国との冊封関係を拒否していたと先に伸べました。おかげで、日本は一度も中国大陸の国とは属国関係になったことはありません。現代のように、中国の属国になりたい政治家や文化人・マスコミがいることの方が歴史上はじめてのことなのです。

さて、古代の日本において、弱小国家でありながら当時世界最大の帝国、隋に対等外交を要求した天才的な政治家がいました。聖徳太子です。当時の世界情勢、とりわけ東アジア情勢をつぶさに観察し、隋が高句麗攻略に頭を痛めている状況を見越して、すかさす煬帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」と国書を送りました。これを見た煬帝は激怒したそうですが、しかして、国際情勢を鑑みた煬帝は返書を送らざるを得ませんでした。翌年には小野妹子を遣随使として送り、「東の天皇、敬みて西の皇帝に申す」と国書に記載しています。

なかなか胸のすくできごとで、媚中派の面々に爪の垢でも煎じてのませたいほどですが。ここで、論ずるのは、聖徳太子が摂政の時代の天皇は推古天皇という女帝だったということなのです。何をいまさらと思う方もおられるでしょうが、歴史を書いているサイトでとんでもないものを見つけたからです。それは、聖徳太子の時代は、女帝ではなく男帝であるということと、そこから話が派生したのかどうかはしりませんが、大和朝廷以外に別の王朝があったというのを見たからです。

こういういかがわしい説が、戦後まことしやかに流れるのですが、たいていは日本書紀を読みこなすことが出来ず、しかも当時の東アジア情勢がどういうものだか理解していないから、トンチンカンな妄想説を発表するのです。

なぜ、聖徳太子が隋の煬帝に国書を出したときに、あたかも男帝がいるかのように振舞ったのかといえば、理由は簡単なんです。中国は伝統的に女帝の存在を嫌うからです。そうした事情を知っていたからこそ、聖徳太子は意図的に男帝のようにみせかけたのです。外交の天才といわれる所以です。

こういう歴史的背景を知らずに、歴史の解釈をしている人があとをたちません。歴史的な背景を理解する教養がないとこのような厚顔無恥な説を発表してしまいます。

ですから、ネットの普及とともに想像を絶する異端邪説が飛び交っているのですが、そんなものを信ずるよりは、原点の日本書紀を全体を通してよく読んだほうがいいのではないでしょうか。

いま一度繰り返しますが、日本書紀は正史です。しかも、付帯意見もつけて他説をも排除しないという寛容の態度で記載された世界でも稀有な歴史書です。中国の歴史書のような改竄と捏造の産物ではありません。また韓国の歴史書のような妄想と捏造の産物でもありません。極めて、歴史的事実を客観性に持たせるべく書かれている歴史書でありますから、これこそを宝として研究すべきです。

また、日本書紀に書かれていないことがらで、中国や韓国の歴史書に書かれているならば、中国や韓国の文献を先に疑うべきです。嘘と捏造と自己宣伝のために書かれた捏造書であるということをお忘れなく。
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