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安倍談話、有識者懇の報告書全文

朝日デジタル  2015年8月6日21時22分
はじめに

本懇談会は、平成27年2月25日に開催された第1回会合にて、安倍総理より、懇談会で議論する論点として、以下の5点の提示を受けた。

1 20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか。私たちが20世紀の経験からくむべき教訓は何か。

2 日本は、戦後70年間、20世紀の教訓をふまえて、どのような道を歩んできたのか。特に、戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献をどのように評価するか。

3 日本は、戦後70年、米国、豪州、欧州の国々と、また、特に中国、韓国をはじめとするアジアの国々などと、どのような和解の道を歩んできたか。

4 20世紀の教訓をふまえて、21世紀のアジアと世界のビジョンをどう描くか。日本はどのような貢献をするべきか。

5 戦後70周年に当たって我が国が取るべき具体的施策はどのようなものか。

 懇談会では、総理から提示があった各論点につき、7回にわたり会合を実施してきた。今般、これら会合における議論を、総理から提示があった論点に沿って本報告書としてとりまとめた。本報告書が戦後70年を機に出される談話の参考となることを期待するものである。

侵略明記、おわび言及せず

 戦後70年談話(安倍談話)に関する有識者会議「21世紀構想懇談会」は6日、安倍晋三首相に報告書を提出した。先の大戦における侵略と植民地支配の事実を認め、指導者の責任にも言及。また、平和主義を貫いた戦後日本の歩みには一定の評価を与えた。報告書の提出を受けて、首相は14日に安倍談話を閣議決定し、発表する方向だ。

安倍談話、有識者懇の報告書全文・はじめに
特集:戦後70年

 懇談会座長の西室泰三・日本郵政社長と座長代理の北岡伸一・国際大学学長が6日、首相官邸で首相に報告書を手渡した。首相は「戦後70年の節目となる本年、先の大戦から我々は何を学び、どのような道のりを進んでいくべきかということを、世界に向けて発信していく談話を作成していきたい」と語った。

 懇談会は首相の私的諮問機関として2月下旬に設置。歴史学者、官僚OBに加え、経済界、メディアなどから16人が参加し、7回にわたり議論を重ねた。

 報告書は、首相が初会合で示した五つの論点に沿って記された。「20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか」について、満州事変以後の日本を「大陸への侵略を拡大し、世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた」と明記。植民地支配も1930年代後半から過酷化したとし、これらを導いた「日本の政府・軍の指導者の責任は誠に重いと言わざるを得ない」と厳しく指摘した。

有識者懇の報告書全文・1

1 20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか。私たちが20世紀の経験からくむべき教訓は何か。

(1)20世紀の世界と日本の歩み

ア 帝国主義から国際協調へ

 20世紀を振り返るため、少し19世紀に立ち返りたい。19世紀の世界を特徴づけるのは、西洋における技術革新により、欧米が他の地域に対して圧倒的な優位に立ったことである。世界史上、多くの時代で世界最大の国であり、1830年ころにも世界最大の経済大国だった中国が、英国に、しかもアヘン戦争という極めて非道な戦争に敗北してしまったということは、この技術格差の拡大を示す世界史的な大事件だった。

 この技術格差を前提に、西洋諸国を中心とする植民地化は世界を覆った。アジアにおいては、植民地化を免れようと近代化を遂げた日本が日清戦争に勝利して台湾を植民地とし(1895年)、アジアに縁の薄かったドイツも、宣教師が殺されたことを理由に、膠州湾を租借して山東省を勢力圏とし(1898年)、さらに、もともと植民地から独立し、それゆえに植民地に反対することが多かった米国も、米西戦争に勝利してフィリピンを植民地として領有することになった(1898年)。

 しかし20世紀初めには、その植民地化にブレーキがかかることになった。

 1905年、日露戦争で日本が勝利したことは、ロシアの膨張を阻止したのみならず、多くの非西洋の植民地の人々を勇気づけた。のちに1960年前後に独立を果たしたアジア、アフリカのリーダーの中には、父祖から日露戦争について聞き、感激した人が多かった。

 植民地化にさらにブレーキをかけたのは第1次世界大戦末期にウィルソン大統領が平和のための14カ条のうちの一つとして掲げた「民族自決」の理念だった。民族自決は、元来ヨーロッパに向けた概念だったが、アジアもこれに反応し、朝鮮で三・一事件、中国で五・四運動などが起きるきっかけとなった。

 しかし列強の多くは植民地を手放す意思はなく、結果として、これ以上の植民地拡大はしないという大まかな合意が成立した。アジア太平洋では、中国の統一と独立を尊重するという趣旨の9カ国条約が成立した。

 一方、技術革新は戦争をますます悲惨で巨大なものとした。19世紀末には、仲裁裁判によって紛争を解決しようとする動きが生じていた。そして、第1次大戦が人類史上未曽有の犠牲をもたらしたことから、国際法上戦争を否定しようとする戦争違法化の動きが一段と強まり、国際連盟規約において加盟国に「戦争に訴えない義務」を課し、1928年には、不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)において、戦争を国策の手段としては認めないと定めた。これと並行して、1922年のワシントン会議と1930年のロンドン会議においては、海軍軍縮が議論され、一定の成果をあげた。

 1920年代、列強は軍事的膨張を控え、経済的な行動に力を入れた。日本でも政党政治が発展し、1924年から32年までは政党内閣が続き、1925年には男子普通選挙法が成立している。外交でも、幣原外交の名で知られる列国との協調が主流となった。

 ただ、1920年代の安定は、不安定なものだった。世界では、リーダーたるべき米国は国際連盟に参加しなかった。日本では、政党の優位は制度的な裏付けを持たず、軍部は強い独立性を持っていた。国際協調主義者が一応優位を占めていたが、パリ講和会議において人種差別撤廃決議が否決されたこと、1924年に米国議会で日本人が帰化不能外国人とされ、移民枠ゼロとされたことなどは、彼らの影響力を傷つけていた。

イ 大恐慌から第2次世界大戦へ

 1929年にアメリカで勃発した大恐慌は世界と日本を大きく変えた。アメリカからの資金の流入に依存していたドイツ経済は崩壊し、ナチスや共産党が台頭した。

 アメリカが高関税政策をとったことは、日本の対米輸出に大打撃を与えた。英仏もブロック経済に進んでいった。日本の中の対英米協調派の影響力は低下していった。日本の中では力で膨張するしかないと考える勢力が力を増した。特に陸軍中堅層は、中国ナショナリズムの満州権益への挑戦と、ソ連の軍事強国としての復活を懸念していた。彼らが力によって満州権益を確保するべく、満州事変を起こしたとき、政党政治や国際協調主義者の中に、これを抑える力は残っていなかった。

 そのころ、既にイタリアではムソリーニの独裁が始まっており、ソ連ではスターリンの独裁も確立されていた。ドイツではナチスが議席を伸ばした。もはやリベラル・デモクラシーの時代ではないという観念が広まった。

 国内では全体主義的な強力な政治体制を構築し、世界では、英米のような「持てる国」に対して植民地再分配を要求するという路線が、次第に受け入れられるようになった。

 こうして日本は、満州事変以後、大陸への侵略(注1)を拡大し、第1次大戦後の民族自決、戦争違法化、民主化、経済的発展主義という流れから逸脱して、世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた。特に中国では広範な地域で多数の犠牲者を出すことになった。また、軍部は兵士を最小限度の補給も武器もなしに戦場に送り出したうえ、捕虜にとられることを許さず、死に至らしめたことも少なくなかった。広島・長崎・東京大空襲ばかりではなく、日本全国の多数の都市が焼夷(しょうい)弾による空襲で焼け野原と化した。特に、沖縄は、全住民の3分の1が死亡するという凄惨(せいさん)な戦場となった。植民地についても、民族自決の大勢に逆行し、特に1930年代後半から、植民地支配が過酷化した。

 1930年代以後の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重いと言わざるを得ない。

 なお、日本の1930年代から1945年にかけての戦争の結果、多くのアジアの国々が独立した。多くの意思決定は、自存自衛の名の下に行われた(もちろん、その自存自衛の内容、方向は間違っていた。)のであって、アジア解放のために、決断をしたことはほとんどない。アジア解放のために戦った人はもちろんいたし、結果としてアジアにおける植民地の独立は進んだが、国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない。

ウ 第2次世界大戦後

 第2次世界大戦は、全世界で何千万人にも及ぶ未曽有の犠牲者を出し、国際社会に深い傷を残した。日本人の間でも約310万人の尊い命が奪われた。20世紀後半、国際社会は、もう二度と巨大な戦争による悲惨な事態を繰り返してはならないとの強い決意の下、新たなシステムの構築を進めた。

 国際社会にとり最優先であったのは、戦争の予防と平和の確立であった。第2次世界大戦を防ぐことができなかった国際連盟の失敗を教訓として、1945年、国際連合が設立された。国際連合は、その憲章第1章第2条で、国際関係における武力行使を原則として禁止し、この規範は、大戦後の世界平和における基軸となった。この点、日本は、戦後、不戦に関する国連憲章の規範をもっとも忠実に守った国であったと言える。憲法9条第1項を有する戦後日本の歴史において、軍事的自己利益追求行動は皆無であった。戦後の日本においては、世界中のいかなる場であれ、力による領土等の変更に常に反対する気持ちが国民の間で広く深く共有されており、政府の政策にも貫かれている。

 戦後国際秩序にとってこれと並んで重要だったのが、自由貿易システムの発展だった。第2次世界大戦の要因となった、大恐慌からブロック経済、そして国際貿易体制崩壊という流れを防ぐべく、戦後間もなくブレトン・ウッズ体制が構築され、GATT体制の下、国際自由貿易体制が確立された。この自由貿易体制の下、戦後世界経済は大きく発展し、日本もこの体制の主要なメンバーとして、経済成長を達成した。第2次世界大戦前のような武力による生存圏拡大の考え方を信じる人はほぼ皆無となり、自由貿易により繁栄を追求する人が圧倒的多数となった。そして日本は、この中で、アジア諸国を中心に、平和と経済発展による国家の繁栄モデルを提供してきた。

 更に忘れてはならないのは、第1次世界大戦後に生まれた民族自決の動きが、第2次大戦後、多くのアジア・アフリカ諸国において独立、脱植民地化という形で結実したことである。日本も参加した1955年のアジア・アフリカ会議では、植民地主義が糾弾され、基本的人権の尊重を求めるコミュニケが採択された。この流れの中、1950年代から60年代にかけて、アジア・アフリカの多くの国が独立を達成し、第2次世界大戦前に、大国が力によって他国を支配していた時代は終わり、全ての国が平等の権利を持つ世界となった。

エ 20世紀における国際法の発展

 以上振り返ってきた激動の20世紀史を象徴するように、国際法の性格も、20世紀前半と後半で大きく変化した。20世紀前半の国際法は、国家間の紛争の概念を明確に限定したうえで、紛争要因を縮減することを目的とした消極的な性格のものであった。そして、その中心的課題は、戦争をどう制御するかということに絞られ、経済社会問題は基本的には各国の国内管轄事項として、国際法の規律の対象外とされていた。戦争の制御については、1919年の国際連盟規約、1928年の不戦条約を通じて、国際法は、戦争放棄の大きな流れを作ることには成功した。しかし、連盟規約は戦争に訴えるための手続きを厳格化したが、戦争に訴えること自体を禁止したものではなく、また不戦条約も禁止の例外となる自衛権の範囲や「戦争に至らない武力の行使」をめぐり、解釈の余地を残した。なお、国際法上の「侵略」の定義については、国連総会の侵略の定義に関する決議(1974年)等もあるが、国際社会が完全な一致点に到達したとは言えないとする指摘もある。

 20世紀後半の国際法は、各国の共通利益の実現を促進する積極的な役割を担うものに変貌(へんぼう)を遂げた。第2次世界大戦の教訓を基に、国際連合の設立を通し、武力行使を国際社会全体で防ぐ体制が整えられた。また、国際貿易体制の崩壊が第2次世界大戦勃発の要因の一つになったことを踏まえ、国際法によって経済面、社会面における各国の協力を推進し、規範を形成する動きが急速に進んだ。人権や環境についての規範の発展もあった。先の大戦に至る過程において、国際連盟を脱退し、不戦条約の抜け穴を利用しようとして武力行使に踏み切った日本が、大戦後においては、憲法9条1項と共に不戦に関する国連憲章規範をもっとも忠実に守り、また国連を中心とする多様な活動に積極的に貢献する国に生まれ変わったことは前述したとおりである。

(2)20世紀からくむべき教訓

 20世紀から我々がくむべき教訓とは何だろうか。第一に、国際紛争は力によらず、平和的方法によって解決するという原則の確立である。力による現状変更が許されてはならない。第二に、民主化の推進である。全体主義の国々において、軍部や特定の勢力が国民の人権を蹂躙(じゅうりん)して暴走した結果戦争に突入した経緯を忘れてはならない。第三に、自由貿易体制である。大恐慌からブロック経済が構築され、国際貿易体制が崩壊したことが第2次世界大戦の要因となったことを踏まえ、20世紀後半の世界経済は、自由貿易体制の下で発展してきた。第四に、民族自決である。大国が力によって他国を支配していた20世紀前半の植民地支配の歴史は終わり、全ての国が平等の権利と誇りをもって国際秩序に参加する世界に生まれ変わった。第五に、これらの誕生間もない国々に対して支援を行い、経済発展を進めることである。貧困は紛争の原因となりやすいからである。このような平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援などは、いずれも20世紀前半の悲劇に学んだものであった。

 この世界の歩みは、第2次世界大戦によって焦土と化した日本が、20世紀後半に国際社会の主要メンバーとして発展してきた歩みに重なる。日本は、20世紀の前半はまだ貧しい農業中心の国であり、産業と貿易によって富を築くという考えよりも、領土的膨張によって発展すべきだとする考えが、1930年代には支配的となってしまった。戦前の日本においては、政治システムにも問題があった。明治以来、アジアで初の民主主義国家として発展してきた日本であったが、明治憲法は多元的で統合困難な制度であって、総理大臣の指揮権は軍に及ばず、関東軍が暴発した時、政府はこれをコントロールする手段を持っていなかった。独善的な軍は、戦局が厳しくなるにつれ、国民に対する言論統制を強め、民主主義は機能不全に陥った。そして軍事力によって生存圏を確保しようとする日本に対し、国際的な制裁のシステムは弱く、国際社会は日本を止められなかった。

 しかし、20世紀後半、日本は、先の大戦への痛切な反省に基づき、20世紀前半、特に1930年代から40年代前半の姿とは全く異なる国に生まれ変わった。平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援などは、戦後の日本を特徴づけるものであり、それは戦後世界が戦前の悲劇から学んだものをもっともよく体現していると言ってよいのではないだろうか。

 (注1) 複数の委員より、「侵略」と言う言葉を使用することに異議がある旨表明があった。理由は、1)国際法上「侵略」の定義が定まっていないこと、2)歴史的に考察しても、満州事変以後を「侵略」と断定する事に異論があること、3)他国が同様の行為を実施していた中、日本の行為だけを「侵略」と断定することに抵抗があるからである。

有識者懇の報告書全文・2

2 日本は、戦後70年間、20世紀の教訓をふまえて、どのような道を歩んできたのか。特に、戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献をどのように評価するか。

(1) 戦後70年の日本の歩み

ア 敗戦から高度経済成長へ

 戦後の日本は、戦前の失敗から学び、平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援といった近代の普遍的な諸原則の上に立ち、戦後構築された国際的な政治経済システムの中で、経済復興と繁栄の道を歩んできた。

 先の大戦で焦土と化し、敗戦と共に米国を中心とする連合国の占領下におかれた日本にとり、国としての独立と国際社会へ復帰、そして経済の再建が急務であった。日本は、1951年にサンフランシスコ平和条約に署名し、同条約により、翌1952年に独立を達成した。サンフランシスコ平和条約に調印しなかった国々とは個別に関係を正常化した。そして日本は、1951年の世銀・IMFへの加盟を皮切りに、1955年に関税及び貿易に関する一般協定(GATT)、1956年に国際連合、1964年に経済協力開発機構(OECD)への加盟を果たし、国際社会への復帰を果たして行った。また、国交を正常化した国のうち、ビルマ、フィリピン、インドネシア、南ベトナムとは、賠償協定を締結し、賠償事業を実施した。

 日本が今日の政府開発援助(ODA)の形で各国に経済協力を始めたのは1950年代前半であった。1954年のコロンボ・プランへの加盟と共に技術協力を始めた日本は、1958年には最初の円借款をインドに対して供与した。日本の政府開発援助(ODA)は、インフラ整備や技術支援等を通じ、アジア諸国の経済発展に大きく貢献したが、初期の経済協力は日本産品の調達を義務付ける「タイド(tied)」型の援助であり、経済協力を通じて日本経済の復興を図る意図があったことは否めない。

 1950年代半ば以降、日本経済は、高度経済成長を開始した。戦後初期、日本は米国の支援を受けて、経済再建への基礎を築いた。1955年から1973年まで経済成長率は年平均10%を超え、早くも1968年には西ドイツを抜いて自由世界第2位の経済大国になった。この背景には、戦後米国を中心として作られた自由貿易に立脚した国際経済体制が日本産品の輸出を受け入れてくれたことがある。特に米国は、日本のGATT加盟を後押しし、1950年代に依然として日本工業の主力産品であった繊維産業の最大の消費国となって以来一貫して自国市場を日本製品に対して開放してきた。

 ただし、急速に経済成長を遂げた日本であったが、国際社会における自己認識は、この時期はまだ「小国」のものであり、主要先進工業国の一として、自らの市場を大きく開いて国際的な自由貿易の増進に貢献しようとする意識は低かった。また、高度経済成長の過程では「四大公害」をはじめとする環境問題や深刻な都市問題が発生した。

イ 経済大国としての日本

 経済大国になった日本に対し、日本がその国力に見合った責任感や国際政治経済システムの維持に貢献しようとする意思を有しているかどうかという点について、世界は徐々に厳しい目を向けるようになった。いつまでも後発の工業国家として、国内市場を保護しつつ輸出を懸命に増やそうとする日本の姿勢は批判を受け、米国との間では経済摩擦が起こるようになった。また、東南アジアの国民感情に対する配慮が不十分だったこともあり、1974年に東南アジアを歴訪した田中角栄首相は、ジャカルタとバンコクで激しい反日デモにあった。

 それ以降1970年代には、日本企業は、アジア諸国への直接投資によって現地生産を行い、本格的にこれらの国々への技術移転を開始した。日本企業は、自動車や電気製品などの製造拠点をアジア各国に築くとともに、これらの国々において天然ガスや石油鉱物資源の開発を開始し、やがてその資源は日本へ輸出されることとなった。アジア諸国における日本企業の進出は、日本からの技術移転や資源開発支援が増えるほど、これらの国々と日本との貿易も増えるという好循環につながり、日本経済とアジア経済の相互依存関係を構築してきた。また、現地に溶け込んで、共に働くという日本企業の姿勢は、アジアの国々を中心に共感を呼んだ。このような日本企業の努力が、政府開発援助と並んで、アジアにおける日本のイメージを好転させる上で、大きな実を結んだ。こうした経済面における交流に加え、1972年に国際交流基金が創設される等、1970年代、日本とアジアの間では文化面の交流も活発になった。

 1975年に先進国首脳会議(G6、後のG7)が創設されると、日本はその一員となり外交の視野を広げることとなった。1974年の東南アジアにおける反日的な動きを受けて、1977年に福田赳夫首相が発表した「福田ドクトリン」は、軍事大国にならない決意、東南アジア諸国との間で政治・経済のみならず社会・文化を含めた「心と心の触れ合う相互信頼関係」を築くこと、東南アジア全域の平和と繁栄に寄与することをうたい、日本の対アジア協力の方向性を示すことにより、東南アジアの国々に大きな安心感を与えた。

 しかし、安全保障面においては、依然として、日本国内では、国際秩序の安定に積極的に貢献しようとする意識は低かった。また、経済面においても日本は、多国間貿易交渉を着実に受け入れ、激しい貿易摩擦にもかかわらずプラザ合意等を通じて米国を中心とする国際通貨システムを支えることに貢献し、工業製品に対する関税障壁を撤廃したが、従前の農業政策との関連で世界における自由貿易促進に対し、抑制的な面があった。当時の日本は、依然として、安全保障面、自由貿易面で、国際秩序の形成、維持にリーダーシップを発揮し、あるいは、大きな役割を果たすことができなかった。

 日本が、国際貢献の手段として推進したのが経済協力であり、この頃からアンタイド化が進んだ日本の政府開発援助(ODA)は、1989年には世界第一位となった。確かに、敗戦国として焦土から出発した日本が、戦後の安全保障や経済秩序構築、即ち、システム構築の面での貢献が少なかったことは事実であるが、世界一位となった日本からの経済協力が途上国の経済発展と社会的安定に貢献し、このことが国際秩序の安定につながったことを考えれば、日本による国際貢献は、決して華々しく目立ちはしないが重要なものであった。また、日本の経済協力は、特に1980年代以降、経済発展から得た知識と技術のみでなく、オイルショックにともなう省エネの必要性や公害等の課題を克服する過程で得た経験に基づき、途上国の課題に適合する形で行われてきた。この相手のニーズに沿った形の経済協力が途上国の発展に効率的に貢献してきたことも評価に値する。

 ODAの総額は、延べで有償約16.6兆円、無償約16.3兆円、技術協力約4.7兆円であり、約37.6兆円に上る。戦後、海外からの支援で奇跡の経済復興を果たした日本が、今度は支援する側として途上国の経済開発に貢献してきた日本の政府開発援助(ODA)の歴史は、国際社会における日本に対する信頼を高めたと言える。

ウ 経済低迷と国際的役割の模索

 1989年にベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結した。東欧諸国では民主革命が相次ぎ、1991年末にはソ連が崩壊するに至った。この頃、日本は、多額の政府開発援助(ODA)を初めて東欧諸国に投入して、東欧諸国の民主化改革、市場経済化を支援した。それは、既に良好であった東欧諸国との関係を、冷戦終了後、一層、強固なものとすることに大きく貢献した。日本の民主化支援は、90年代のASEAN諸国が次々と民主化した際にも行われ、現在も、選挙制度構築支援、法制度改革等の形で引きつがれている

 1990年代の日本は、バブル崩壊を経験し、「経済大国」という自信を失い、国際社会における自らのアイデンティティーを問い直す時期を迎えていた。経済は停滞し、1997年にピークを迎えた政府開発援助(ODA)はその後減少を続けた。当初予算ベースでは、現在は97年に比べて半分近くまで落ち込み、かつて世界1位であった順位も5位にまで後退している。

 他方で、国際経済面において、日本は、1989年に設立されたアジア太平洋経済協力(APEC)を支援しつつ1980年代からアジア太平洋地域における自由貿易の促進に貢献するようになった。冷戦終了後のアジア太平洋経済協力(APEC)には、中国、香港、台湾が参加し、1998年にはロシア、ベトナム、ペルーが参加し、名実ともにアジア太平洋最大の経済会議となった。また、日本は、1990年代後半のアジア通貨危機において、影響を受けた国々へ大きな支援を行った。この危機を契機にアジアにおいては、アジア通貨基金やチェンマイ・イニシアチブが創設され、域内国間の自由貿易協定が多く誕生する等、経済面における地域主義の流れが加速した。

 21世紀に入ると、統合を進めるASEANを中心に東アジア首脳会議(EAS)構想が登場し、2005年にそれが現実のものとなったとき、米国は消極的であったが、日本は、印豪の参加はもとより、将来の米露参加へも開かれたものとすることに大きく貢献した。

 成長を続けるアジア太平洋地域を自由貿易圏に転化していこうとする日本政府の政策は、1980年の大平正芳総理が提唱した環太平洋連帯構想にさかのぼることができるものであり、現在行われているTPP交渉等の経済連携協定を始めとして、複合的に重なり合うアジア太平洋域内の幾多の経済連携協定締結への流れにそのまま連なっている。

エ 安全保障分野における日本の歩み

 第2次大戦後、日本は、日米安全保障条約が可能にした軽武装、平和路線の道を一貫して歩み、経済発展に邁進(まいしん)してきた。日本は、過重な防衛費を負担することなく安全保障を確保し、経済復興に専念するために、日米安保条約の締結と米軍の駐留継続を選択した。日本が安全保障面において国際秩序の安定に貢献しようとする意識は低く、米国の保護の下、経済発展を遂げるという姿が戦後数十年続いた。

 安全保障の文脈で、日本が「国際貢献」という言葉を広く使い始めたのは、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻に対するモスクワ・オリンピック不参加からであった。大平総理は1980年1月に「日本は世界平和のために犠牲にしなければならないこともある」と国民に宣言し、これに続き、1983年の米国のウィリアムズバーグに参加した中曽根康弘首相は、日本が国際社会の安全保障問題に関与していくことを明確にし、先進民主主義工業国家としての責任と自覚を公言した。しかし、その後の日本の実際の行動は必ずしもその言葉について行かなかった。1980年代においても、日本は、安全保障問題に関与する意思はあったが、実際に行動を起こさなければいけないという意識はなかった。

 この日本の安全保障問題に関する消極的姿勢は、1990年代に入ると転換を見せる。冷戦が終焉し、グローバル化の進行とともに非国家主体が大きな役割を果たすようになった。その一方で、宗教対立、民族対立、テロリズムと人々への脅威が多様化し、これまでの安全保障の概念では対応できないケースが出てくる中、日本は90年代以降、第一次湾岸戦争後の掃海艇派遣(1991年)、国連平和維持活動(PKO)への参加、特に、カンボジア和平と国づくりへの支援(1992年~1993年)、更に、その後の日米防衛ガイドライン改定(1997年)、9.11同時多発テロを契機として始まった米国のテロとの戦いにおけるインド洋給油活動(2001年~2010年)、アフガニスタン復興支援国際会議を中心とする同国への支援(2002年~)、イラクでの人道復興支援(2003年~2009年)、ソマリア沖・アデン湾における海賊対策(2009年~)といった積極的平和主義の歩みを進め、ようやく安全保障分野における積極的な国際貢献を開始した。この積極的平和主義の流れは、今日も続いているが、90年代前半からこれまでの日本行動を振り返ると、実際のニーズからは常に半歩遅れの行動であったことは否定できない。例えば、湾岸戦争での輸送や医療面での協力、インド洋でのパトロール活動への参加、イラクでの住民の安全確保のための活動などは行い得ず、国際社会の要望に完全に応える形で貢献を成し遂げてきているとは言えない。

(2) 戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献への評価

 戦後史を振り返れば、日本の国際的行動のなかには軍事的自己利益追求行動は皆無であり、戦後の日本の歩みは、1930年代から40年代前半の行動に対する全面的な反省の上に成り立っている。

 同時に、日本は、20世紀後半に新しく世界のリーダーとなった米国が主導して立ち上がった、平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援を前提とした新しい自由主義的な国際システムに忠実に生きてきた国の一つである。また、戦後構築された政治経済システムは、米国の構想力に負うところが大きかったが、それは人類社会全体が政治、経済、社会的に成熟する方向性と合致していた。日本は、戦後の自由主義的国際システムに正義と利益を見出し、それを責任ある諸国と共に支えることが国益であると信じることができた。

 敗戦の焦土から立ち上がる間、日本は、暫時、自らの復興に専念していた。しかし、1980年代に入ると、大平正芳首相の環太平洋連帯構想や中曽根首相の「西側の一員」発言が示すように、日本は、国際秩序の構築と維持に貢献する、責任ある大国になろうとする意思と覚悟を示しはじめる。この日本の歩みは、日本国民の対外意識の成熟と歩みを同じくしている。

 戦後70年を経て、日本は、欧米諸国からの支援を受けつつ、奇跡的な経済成長を遂げた後、国際秩序の安定と形成に貢献する国際政治経済システムの主要なメンバーに生まれ変わった。日本は、徐々に、戦後国際秩序の単なる受益者から、秩序維持のコストを分担する責任ある国になってきている。

 日本の国際貢献は、政府開発援助から始まり、自由貿易の促進、地域統合の促進、最後に安全保障面での貢献へと進んでいった。2000年代に入った日本は、安全保障面でも積極的平和主義に転じ、国連平和維持活動(PKO)への参加や周辺事態への関与を通じ、国際社会への貢献を着実に高めようとしている。戦後70年において、日本の安全保障にとって米国の存在は圧倒的であり、日本が世界で最も兵力規模の大きい国々が集中するこの東アジア地域において一度も外国から攻撃を受けることなく、平和を享受できたのは、日米安保体制が作り出した抑止力によるところが大きい。日本は日米安保体制の抑止力と信頼性の向上のために、自衛隊の能力にふさわしい形で、米国との防衛協力を進めてきた。しかし、本来は同盟国である米国との役割分担に従って決めるべき防衛力の水準を「GNPの1%以内」と日本が定めてきたことは、日米安保体制に一定の制約を課すことにもなった。こうして日本の防衛費は対GDP比では世界100位以下の低水準で済んできたが、中国の軍事費が膨張する中で日本の防衛費を経済指標(GNP)にリンクし続けることの妥当性についての検討も、必要になろう。

 なお、この戦後70年の日本の平和主義・国際貢献路線は、国際社会及び日本国民双方から高い評価を受けているが、その歩みは、戦後突然生まれたものではない。日本の戦後の歩みは、明治維新以後の自由民権運動や立憲君主制の確立などの自由主義的民主制や、国際社会の規範の受容の上に成り立っているものである。もちろん、戦後の日本の自由主義的民主制の確立や、日本の国際社会復帰に米国が果たした役割は大きかったが、明治以来の民主主義の発展や、民主主義国家として、国際平和、民主主義、自由貿易を基調とする国際秩序形成に積極的に関与してきたことが、戦後日本と通底していることを忘れるべきではない。

有識者懇の報告書全文・3

3 日本は、戦後70年、米国、豪州、欧州の国々とどのような和解の道を歩んできたか。

(1)米国との和解の70年

ア 占領期

 米国を中心とする連合国による対日占領については、それが第2次世界大戦というこれまでにない悲惨な戦争の後の占領である以上、そこに勝者による懲罰的な要素が存在することは避けられなかった。この意味で少なからぬ日本人が米国による占領に何かしらの不満を抱いたことは否めない。しかしながら、1945年から1952年まで続いた占領は、全体としては日本に対して寛大であり、日本人にとっても有益な部分が大きかった。ソビエト連邦による東独及び東欧諸国の占領が相当過酷であったように、占領は、勝者による略奪と収奪に近い状態を意味する場合がある。しかし、米国は日本で露骨な略奪を行うことはなかった。むしろ、戦後の食糧供給を始めとして、米国は困窮する日本に救いの手を差し伸べた。日本が非軍事化されたということは、勝者による敗者への懲罰という面もあった。米国が日本を民主化へ導いたこと、そして経済発展を支援したことは、長期的には米国の利益にかなうものではあったものの、総じて日本にとっても利益の大きいものであり、多くの日本人がこれを支持した。

 米国による日本占領は、その占領政策の性質により前期と後期に分けることができる。前期は、米国が日本に対し徹底的な民主化と非軍事化を求めた時期であり、1946年に制定された日本国憲法体制がその象徴である。この民主化と非軍事化の流れは、多くの日本国民に支持され、米国の影響力の下に策定された日本国憲法に対しても国民からの支持は強かった。この背景には、明治維新以後脈々と発展してきた日本における民主主義があった。普通選挙制度や大正デモクラシーを通し、既に1920年代には、日本国民の間で民主主義的価値観が相当程度根付いていた。占領期、日本は米国に導かれる形で民主化を遂げたが、これは、米国が日本に民主主義を導入したのではなく、1930年代に軍部や一部の政治家によって奪われた民主主義的な価値を、日本国民が米国の力を借りて取り戻したものである。

 しかし、その占領政策は世界的な冷戦の形成により変容する。占領後期において米国は、日本の経済復興を支援し、西側陣営の一員として米国の封じ込め政策を支持する一員として日本を育成することに政策の主眼を置いた。冷戦の出現という国際環境の変化は、米国と日本を始めとする旧敵国との関係を大きく変えることとなった。ソ連封じ込めのために可能な限り多くの同盟国を作り、その協力を仰ごうとしていた米国にとり、日本が民主主義国家として経済的に復興し、国際社会における米国の強力な味方となることは非常に魅力的に映った。日本を独立国として自らの側につけるという米国の戦略は、1952年のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の発効により具現化する。占領からの独立を果たした日本は、わずか7年前まで激しい戦争を繰り広げた相手である米国と同盟関係を築くに至った。日米同盟は、軽武装の下で自国の安全保障に不安を抱いていた日本に経済発展を追求する道を開き、冷戦下の東アジアにおいて軍事的影響力を維持したい米国にその土台を提供した。強い日本の経済力を必要としていた米国は、日本の復興を重視し、サンフランシスコ講和条約にて賠償は求めず、1955年の関税及び貿易に関する一般協定(GATT)への日本の加盟を支援する等、国際貿易体制への日本の復帰を強力に後押しした。こうして、1950年代には、日米は安全保障面と経済面においてお互いを強く必要とする関係となったが、それは、必ずしも対等なものではなかった。

 この米国の占領政策の切り替えは非常に抜本的なものであり、日本国内にも影響を与えたが、米国の対日政策について、二つの残像を与えることになり、これがアジア諸国の日本観にも大きな影響を与えた。

イ 同盟関係の深化

 終戦からわずか7年でお互いを強く必要とする同盟関係を築いた日米両国は、1960年代においてその関係を更に深化させる。岸信介首相が断行した1960年の日米安全保障条約改定は、片務的であった日米同盟をより双務的で堅固な関係に引き上げた。日本が米国に基地を使用させる義務を負っているにもかかわらず、米国に日本の防衛義務を課していなかったこの条約の改定を主張する日本に対し、米国は当初冷淡であった。しかし、長期的な日米関係の安定を重視した米国は、予想に反し、1952年の条約発効からわずか8年とかなり早い時期に改定に同意することとなる。

 条約改定に対し、日本国内では非常に激しい反対運動が起き、結果として岸内閣は総辞職した。しかし、逆説的ではあるが、この二国間関係にとっての逆風が、日米関係の裾野を一層広げる契機ともなった。日本における安保改定反対運動を見たケネディ大統領は、日本とより深い対話の必要性を説いた日本専門家のエドウィン・ライシャワーを駐日大使に任命し、池田勇人首相との間で日米文化教育交流委員会(CULCON)を立ち上げた。ケネディ大統領と池田総理の試みは、それまで安全保障と経済にほぼ限られていた日米関係の裾野をより広い基盤を持つ関係に深化させ、現在の日米関係の土台となっている二国間の草の根交流の基礎を築いた。

 当時日米関係の最大の懸案の一つであった沖縄返還についても、沖縄の戦略的重要性を強く認識している米国は、当初は後ろ向きであった。沖縄が米国の占領下におかれているという事実は、日米が同盟関係というより戦争の敗者と勝者であるとの印象を人々に植え付ける象徴となっていたが、1960年のベトナム戦争開戦以来、米軍にとっての沖縄の重要性は増す一方であった。しかし、ベトナム戦争が泥沼化し、沖縄の返還にはまだまだ時間がかかると思われていた1967年、訪米した佐藤栄作首相は、ジョンソン大統領との間で共同コミュニケを発表し、この中で沖縄につき、「両三年以内」に双方の満足しうる返還の時期につき合意するとの文言を盛り込むことに成功し、更に69年には、佐藤首相とニクソン大統領の間で、沖縄の1972年の日本への返還が合意された。この背景には、佐藤政権の粘り強い交渉姿勢があったことは勿論であるが、米国が、中長期的に考えた場合、沖縄返還が安定した日米関係のために不可欠であると判断したことがある。

ウ 緊張する日米関係

 二国間関係の基盤を着々と固めてきた日米であるが、1970年代に入るとその関係は幾度となく困難な場面に直面する。まず、1969年に大統領に就任したニクソンが、1971年7月、日本との協議なしに訪中決定を発表し(1972年大統領訪中)、また、8月、金とドルの兌換停止を発表し、それまで順調であった日米関係は緊張した。そして、経済大国になっていた日本を、米国が競争相手として見るようになったのもこの頃であった。既に幾つかの分野で米国の世界市場における優位性を脅かす存在になっていたにもかかわらず、国内市場を保護しつつ輸出を懸命に増やそうとする姿勢を崩さない日本に対し、米国は不満を感じるようになった。

 更にこの頃から米国は、日本が一向にその経済力に見合った国際政治上の責任を負おうとしないと認識するようになっていた。日本は、米国に基地を提供するという日米安全保障条約上の義務を誠実に履行してきてはいたものの、米国は日本の安全保障面での貢献の少なさに不満を募らせていた。米国が日本に対し、明示的に防衛費の増額を要求し始めたのも1970年代であった。

 1970年代末から、第二次石油危機により燃費のよい日本車の対米輸出が急増し、日米の経済摩擦は自動車を中心に激化した。経済摩擦は1980年代を通じて日米関係の大きな懸案となるが、当時摩擦が激化した背景には、1980年代半ばからソ連でペレストロイカが始まり、ソ連がもはや米国にとって脅威ではなくなってきたことにより、米国が日本との関係に配慮する必要性が低下してきたという事情もあった。米国では日本に対する反感が高まり、1980年代において、一時的ではあるが、米国国内では、日本を最大の脅威と見る世論調査すら登場した。

 このように、経済面では摩擦が頻発し、安全保障面では日本の国際貢献に米国が不満を募らせる中、日米同盟の基盤を支えたのは、冷戦下において共に東側諸国に対峙する西側同盟国としての結びつきであった。その冷戦が、1989年のベルリンの壁崩壊とともに終焉に向かうと、日米関係は大きな試練を迎えるのではないかと危惧する声が高まった。

エ グローバルな協力関係に進化する日米同盟

 しかし、1970年代から続いた日米関係の緊張も、その基盤をゆるがすには至らなかった。東アジアは冷戦終結後も不確実性が高い地域であり、その中で日本を同盟国として持ち、日本の基地を使えることは米国にとって大きな魅力であった。日米安保協力は、1980年代半ばに、中曽根首相とレーガン大統領の間で「ロン・ヤス関係」という黄金時代を迎えた。冷戦終焉と共に日米安全保障条約は不要との意見も出るようになったが、北朝鮮の脅威もあり、日米両国は、冷戦後の世界においても日米同盟を堅持する方針を変えず、1996年に橋本龍太郎首相とクリントン米大統領が発表した日米安全保障共同宣言を経て、1997年の日米新ガイドラインにより、同盟関係は更なる強化を遂げた。そして、米国の経済状況が1990年代に入り好転し、日本企業の対米進出が進んだこともあり、米国にとって日本は、それまでの経済的脅威から、自らの維持、発展に欠かすことができないパートナーになっていった。

 この時期、日本では、安全保障政策において大きな変化が生じていた。それまで安全保障面での国際貢献は極めて限定され、政府開発援助(ODA)でその不足を補っていた日本であるが、バブル崩壊と共にもはやODAに頼る政策は限界に直面していた。更に、湾岸戦争において巨額の財政援助をしたにもかかわらず、国際社会に評価されなかったことは、日本に大きな衝撃を与えた。このような状況において、日本国内では安全保障における国際貢献の必要性への理解が進み、湾岸戦争後のペルシャ湾への掃海艇派遣、カンボジアにおける国連平和維持活動(PKO)への参加といった現在まで続く日本の積極的平和主義の歩みが始まった。

 米国は日本における安全保障政策の転換を大いに歓迎した。2001年から2006年の小泉純一郎首相とブッシュ大統領の下での強固な日米同盟は、自然に生まれたわけではない。安全保障面における国際貢献を増やしてきた日本は、2001年9月11日に米国に対する同時多発テロが起きると、米国のテロとの戦いをインド洋での給油等を通じて支援し、イラクにも自衛隊を派遣してその復興事業に参加した。米国とブッシュ大統領が高く評価したのは、日本が示し続けてきた積極的に国際平和に貢献していく姿勢、そして、グローバルな安全保障課題に共に取り組む新たな日米同盟の姿であった。

(2)豪州、欧州との和解の70年

ア 根深く残った反日感情

 第1次世界大戦の当事者であり、その戦争の悲惨さを痛感した欧州は、第2次世界大戦前、1919年の国際連盟規約、1928年の不戦条約を通じ、国際社会における戦争防止に向けた大きな流れを作ることを主導していた。この国際連盟と不戦条約による戦争違法化の流れに大きな打撃を与えたのが、1931年の満州事変であった。日本による平和の秩序の破壊は、イギリスの歴史家E・Hカーが、「日本の満州征服は第1次世界大戦後のもっとも重大な歴史的・画期的事件の一つであった。」と述べたように、英国やフランスといった欧州諸国に大きな衝撃を与えた。

 日本のアジアにおける覇権拡大の過程で植民地を失い、多くの自国民を捕虜にとられた欧州諸国において、日本に対する反感は国民が広く共有する感情となった。欧州の中でも、多くの自国民が日本との戦争の犠牲となった英国とオランダにおいてこの感情は顕著であり、アジア太平洋で日本と戦火を交え、欧州同様、多数の捕虜を取られた豪州も同様の状況にあった。豪州、欧州が特に大きな衝撃を受けたのは、戦時中の日本による残虐な捕虜の取扱いであった。第2次大戦中、欧州戦線における戦場での死亡率とドイツ・イタリアにおけるイギリス人捕虜の死亡率は共に5%であったが、日本軍の捕虜となった者の死亡率は25%と突出して高い数字を記録した。豪州、そして欧州の人々に強い憤りを与えた日本による捕虜の扱いは、戦後においても長い間、日本とこれらの国々の和解において大きな禍根を残すことになる。

 サンフランシスコ講和条約において、豪州・西欧諸国と日本の戦争状態は終結し、日本にとっての捕虜の問題も、捕虜への支払いを定めた同条約16条により法的には解決する。日本は同条項に基づき、豪州、欧州を含む14カ国の約20万人の元捕虜に対し、総額約59億円を支払ったが、例えばイギリスでは捕虜個人の受領額が平均76.5ポンドに留まる等、その過酷な経験に比べ、支払額は微々たるものであった。この捕虜問題は、日本と英国、オランダ、豪州とのその後の関係に長い影を落とすこととなる。サンフランシスコ講和条約を結びはしたが、豪州や欧州における日本への嫌悪・反感は根深く残った。条約上、捕虜の問題が政府間では解決済であることは、各国政府は十分に認識していたが、第2次大戦中における悲惨な経験が記憶に残る元捕虜、そしてその家族にとり、日本は十分な反省と償いを行っていないとの感情が強く残った。1971年に訪欧した昭和天皇に対し、英国、オランダでは退役軍人を始めとする一部の人々から強い抗議の意が示された。1993年には、英国とオランダの元捕虜団体が日本に対して個人補償を求める訴訟を起こし、1998年に天皇陛下が訪英した際にも、一部退役軍人が抗議の行動に出る等、これらの国々における日本への厳しい感情は、90年代後半まで続いた。

イ 政府、民間が一体となった和解への歩み

 このように、長年にわたり厳しい関係が続いた豪州、英国、オランダと日本の関係であるが、ここ20年の間において大きな進展が見られている。条約によって補償問題が解決している中、被害者個人への償いをどうするかという点は、現在の日韓関係においても見られる非常に難しい問題である。豪州、英国、オランダとの間で日本が取った行動とは、戦争被害者に対する民間支援を政府が出来る限りサポートすることであった。

 英国との関係では、1980年代から元捕虜の日本への招待、東南アジアにある墓地への巡礼、横浜の英連邦戦死者墓地における追悼礼拝の開催等、民間において様々な和解に向けた取組が行われるようになった。日本政府は、1980年代まではこれらの民間の和解に向けた活動に無関心、不親切であったが、1990年代前半からは積極的にこれらの活動を支援し、最終的には日本政府が日英間の民間の和解活動を全面的に支援するに至る。和解に向けた政府の取組はその後、1994年の村山談話による平和友好交流計画へとつながった。10年間で900億円が計上された同計画においては、豪州、英国、オランダを始めとする諸国との間で各種交流、歴史研究者交流が実施され、これらの国々における対日イメージの改善に大きな役割を担った。

 戦争捕虜の問題に加えて、慰安婦の問題が存在したオランダに対しては、アジア女性基金の事業により、政府予算からの医療・福祉支援事業と総理大臣のおわびの手紙が被害者の方々に支給された。慰安婦問題の存在もあり、オランダは英国に増して厳しい対日感情が存在する国であったが、歴代総理からの真摯なおわびの手紙と元被害者への支援事業は、オランダ政府からの理解を得、同国内で肯定的な評価を得た。

 豪州については、同国は終戦直後は極めて厳しい対日観を持つ国であったが、「日本に対する敵意は去るべきだ。常に記憶を呼び覚ますより、未来を期待する方が良い。」と語ったR.G.メンジーズ首相が岸首相との間で1957年に日豪通商協定を結んで以来、経済面を中心とした交流が非常に活発となり、豪州国内における対日イメージは改善していった。豪州にとり日本は天然資源の主要輸出先となり、また日本企業が豪州に投資・進出することにより、現在においては、両国は相互になくてはならない存在となっている。

(3)米国、豪州、欧州との和解の70年への評価

 第2次世界大戦は、人類がこれまで経験した中で最も激しい戦争であり、当事者となった各国の国民が経験した苦難は深く、短期間で霧消するものではない。かかる戦争の和解は容易ではなく、そもそも完全な和解は難しいのかもしれない。現に、日本では東京大空襲、広島・長崎への原爆投下、日系人の処遇、米国による占領の在り方について不満を抱いている国民がいるし、米国、豪州、欧州では戦争捕虜の処遇で日本に対して不満を抱いている人々が存在する。しかしながら、完全な和解は無理だとしても、日本と米国、豪州、欧州は戦後70年をかけて国民レベルでも支持される和解を達成したと評価できる。

 戦争を戦った国々においては、終戦後二つの選択肢が存在する。一つは、過去について相手を批判し続け憎悪し続ける道。そしてもう一つは、和解し将来における協力を重視する道である。日本と米国、豪州、欧州は、後者の道を選択した。血みどろの戦いを繰り広げた敵との間でなぜ日本とこれらの国々は和解を遂げ、協力の道を歩むことができたのか。日本との関係で一つ目の道を選択し、和解の道を歩まなかった国々との違いはどこにあるのか。その解は、加害者、被害者双方が忍耐を持って未来志向の関係を築こうと努力することにある。加害者が、真摯な態度で被害者に償うことは大前提であるが、被害者の側もこの加害者の気持ちを寛容な心を持って受け止めることが重要である。これは、日本と米国、豪州、欧州の関係のみならず、独仏関係においてフランス側が、独・イスラエル関係においてイスラエル側がそれなりに寛大であり、ドイツとの関係改善に前向きであったことが現在の良好な関係につながっていることによっても証明されている。

 今日の日本と米国、豪州、欧州の関係は、相互の信頼、敬意、共通の価値観、相互理解、文化の浸透によって結び付けられた堅固な関係になっている。特に1941年から4年間にわたって全面戦争を戦った日本と米国が短期間のうちに堅固にして良好な同盟関係を持つに至ったということは、世界史において稀有な成功を収めた二国間関係であると言え、その歴史的意義は極めて大きい。しかし、前述したように、先の大戦については、未だ完全な和解は達成されたとは言い難く、米国、豪州、欧州にも日本がまだ十分に謝罪していないと考える人々が存在する。我々は、過去70年間におけるこれらの国々との和解の歴史に誇りを持ちつつ、同時に配慮と謙虚な心を忘れてはならない。

有識者懇の報告書全文・4

4 日本は戦後70年、中国、韓国をはじめとするアジアの国々とどのような和解の道を歩んできたか。

(1) 中国との和解の70年

ア 終戦から国交正常化まで

 日本の戦争責任に対する中国側の姿勢は、第2次大戦終結から現在まで「軍民二元論」という考えの下で一貫している。これは日本の戦争責任を一部の軍国主義者に帰して、民間人や一般兵士の責任を問わないというものであり、極東軍事裁判や対日占領政策において厳しい対日姿勢を示した中国政府も、大戦後中国に留まっていた日本の一般兵に対しては、武装を解除し、民間人と共に引き揚げさせた。

 戦後間もなく、1949年10月に中華人民共和国が成立し、中華民国が台湾に遷ると、世界には二つの中国政府が併存することとなる。米国からの要請もあり、日本は中華民国との間で1952年4月に講和条約を締結し、国交を樹立する。中華民国は、日本への賠償請求権を放棄し、蒋介石総統は「軍民二元論」の考えに基づき、日本には徳を以て怨みに報いるべきであると説いた。「以徳報怨」という言葉は、その後日本と中華民国の間で歴史問題を防ぐ役割を担うことになる。他方、台湾は、1987年まで憲法を停止して戒厳令を敷いており、蒋介石の対日講和は、国民との合意形成の上で進められたものではなかった。また、1950年代、1960年代において日本と中華民国の間の人的交流は限られており、外交的には日本と中華民国は講和を成し遂げていたものの、日本と中華民国双方の人々の和解には大きな進展はなかった。

 一方、中華人民共和国に目を向けると、1950年代半ばにかけて共産党一党独裁が確立され、共産党は日本に厳しい歴史教育、いわゆる抗日教育を行うようになった。しかし、毛沢東国家主席も蒋介石同様、「軍民二元論」に基づき、日本の戦争責任は一部の軍国主義者にあり、日本国民は被害者であるとの立場を明確にした。日本が中華人民共和国でなく、中華民国との間で外交関係を結んだにもかかわらず、毛沢東が日本に対する「軍民二元論」を唱えた背景には、日本国民、特に民間人を中国に惹きつけ、将来的に中華人民共和国を承認するような運動を起こさせるとともに、日本国内の反米運動家や革新派と連携することにより、日本をアジアにおいて政治的に中立化させようとする企図もあった。この毛沢東の方針の下、日本と中華人民共和国との間では、1950年代、60年代に外交関係は存在しなかったが、民間貿易を中心に経済界や日中友好人士の世界において一定の交流があった。

 日本と二つの中国政府との関係は、1960年代後半から70年代前半にかけて大きく変化する。1969年、珍宝島において中ソ国境紛争が発生すると、ソ連との関係に危機感を抱いた中華人民共和国は米国に急接近する。そして1971年に中華人民共和国が国連での代表権を得ると、国交正常化への動きが本格化する。1972年2月にニクソン米国大統領が訪中し、その7カ月後の1972年9月、田中首相は訪中し、中華人民共和国との間で国交正常化することで合意するとともに、中華民国との外交関係は断絶された。

イ 国交正常化から現在まで

 1972年9月、日本と中華人民共和国は、日中共同声明を発表し、国交を正常化した。日中共同声明において、日本側は、「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」とし、これに対し中国側は、「中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」とした。1970年代の中国に目を向けると、1976年に文化大革命が終結し、鄧小平が実権を握り、1978年に改革開放政策が開始される。そして、1978年に鄧小平は中国首脳として初めて訪日し、日中平和友好条約が締結された。同条約は、「すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認」し、第2次世界大戦において戦火を交えた両国が真に平和的な関係を築くことを定めた画期的なものであった。この日中友好の流れの中、1979年には大平正芳総理が訪中し、その後総額3兆円に上る対中経済協力が開始されることとなる。この経済協力を中心に、1980年代の日本は中国の経済発展にとってなくてはならない存在となっていく。鄧小平は日本を経済の師と位置付け、中国では政府、国民双方にとり日本の重要性が急速に高まっていった。

 こうして、中国は、経済面において日本への依存を深めていったが、鄧小平は、日本との経済関係強化に努めると同時に、青少年が過去の日本の行いを知らずに歴史を忘却することを恐れ、歴史を強調するようになった。そして、1982年に歴史教科書問題が起こると、この動きは強まった。南京虐殺記念館と盧溝橋の抗日戦争勝利記念館が建設されたのは、それぞれ1985年と1987年であり、現在まで続く中国における抗日教育の素地が醸成されたのは、この時期の鄧小平の指導の下でのことであった。抗日教育による歴史認識の高まりと共に中国国民の間で徐々に反日意識は強くなっていったが、1980年代においては経済分野における友好関係が歴史認識問題を相殺し、日中双方の国民感情は比較的良好であった。また、1989年の天安門事件は、日本国民の対中認識を大きく悪化させたが、日本政府は、1990年代初頭にいち早く対中経済制裁解除に動き、1992年には天皇陛下が訪中される等、天安門事件後も中国に格別の配慮をした。

 1992年の天皇陛下訪中が示すように、1990年代前半まで日中関係は、様々な紆余曲折はありながらも比較的良好な状態にあったが、1993年に江沢民が国家主席に就任するとその関係は次第に変化していく。1989年に天安門事件が発生し、1980年代後半から1990年代初頭にかけて冷戦の崩壊とともにソ連を始めとする社会主義国が世界から次々と姿を消す中、中国共産党にとって一党独裁の社会主義体制をいかに存続させるかという点は切実な問題となり、この中で共産党の正当性を強化する手段として愛国主義教育が浮上する。中国共産党は鄧小平時代よりも強化された愛国主義教育を展開し、特に日本との歴史問題は愛国主義教育の中で中心的な位置を占めるようになった。

 日本では、ちょうどこの時期、自民党が初めて政権を失い、55年体制が揺らいだ。戦後50年の1995年には村山富市首相が談話を発表し、この中で第2次大戦中、日本は、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たことを認め、「痛切な反省の意を表し、心からのおわびの気持ちを表明」した。日本は歴史に対する謙虚な姿勢を示したが、愛国主義を強化していった中国がこのような日本の姿勢に好意的に反応することはなかった。1990年代、中国の経済は成長し、中国の日本への経済面での依存は弱まってきていた。

 なお、この時期台湾においても大きな変化が起きていた。台湾では、1996年に初の総統選挙が実施され、李登輝が民主的に選ばれた最初の総統に就任した。日本と台湾の間では経済分野を中心に、それまでも活発な交流があったが、台湾の民主化は日本における台湾への意識を大きく改善し、更に台湾の良好な対日感情もあり、日本と台湾の交流はその後急速に緊密化していった。

 1990年代後半から高まった反日意識は、小泉首相の靖国参拝や国連安保理改革をめぐる対立をきっかけとして生じた2005年の中国での大規模反日デモを引き起こし、日中関係に大きな傷を残すこととなった。しかし、このデモを機に日中双方において両国関係をどうにかしなければいけないという機運が高まり、2006年に安倍晋三首相と胡錦濤国家主席の間で二国間関係が「戦略的互恵関係」と定義され、この関係を推進していくことが合意された。1990年代初頭から続いた日中間の歴史認識を巡る対立は、この戦略的互恵関係の確認により、一応の区切りを見せたと言える。事実、2007年4月に来日した温家宝首相は国会における演説において、中国は「軍民二元論」を継承していることを明確にするとともに、日本は「歴史問題について態度を表明し、侵略を公に認め、そして被害国に対して深い反省とおわびを表明し」ており、「これを、中国政府と人民は積極的に評価」していると述べ、さらに、日本の戦後の平和発展の道につき、「日本人民が引き続きこの平和発展の道を歩んでいくことを支持します。」と述べた。これは、村山談話と2005年の小泉談話に対する中国側からの公式な返答であり、日中間の戦争をめぐる対話、和解の一つの区切りと見なすこともできよう。現在の日中関係において、歴史問題はなお二国間の大きな懸案として存在するが、現在の習近平国家主席も日中戦略的互恵関係の継続を明言している。

ウ 中国との和解の70年への評価

 第2次大戦後70年の日中関係を振り返ると、お互いに和解に向けた姿勢を示したが、双方の思惑が十分には合致しなかった70年であると言える。

 大戦直後の1950年代、60年代、蒋介石が「以徳報怨」の精神を示し、毛沢東も「軍民二元論」の考えを明確化した時代は、ちょうど日本においても先の大戦への戦争責任論や反省についての議論が盛り上がりを見せていた。しかし、当時日本は中華人民共和国とは国交がなく、中華民国との間でも人的交流は限られていたため、双方の人々が交わる形で和解が進展したというわけではなかった。逆に言えば、中国で言論の一定の自由化がなされ、台湾で民主化が達成されたころは、日本では反省や責任論が以前よりも後退した後であり、その時期に民間の関係が広がった。1980年代に鄧小平が日本を経済の師とし、日中関係が経済を中心に急速に親密化した時代は和解が進む絶好の機会であったが、鄧小平は同時に、歴史を強調する決断をし、和解の著しい進展は見られなかった。また、天安門事件発生後、日本が中国の国際的孤立を防ぐために動き、更に戦後50年の村山談話を発表したが、こうした日本側の姿勢は、冷戦後に共産党の正当性を強化する手段として中国側が愛国主義教育を強化した江沢民の時代に重なってしまった。

 時代の趨勢等により、不幸にもうまく合致してこなかった日中の和解への取り組みであるが、双方がこれまで成し遂げてきた努力は無駄になったわけではない。戦後50年を機に村山政権が実行した平和友好交流計画は、二国間の人的交流を拡大した。同計画において立ち上げられたアジア歴史資料センターは、今でも歴史への理解を深めようとする両国の研究者により広く使われている。また、2006年から2010年にかけては、日中間で歴史共同研究も行われた。そして、中国は、「軍民二元論」を戦後維持しており、2007年に温家宝首相が国会演説で述べたように、村山談話や小泉談話など、日本による先の大戦への反省と謝罪を評価する立場を明確にしている。

 2006年に安倍首相が胡錦濤主席との間で確認した戦略的互恵関係は、両国間の人的交流の促進を謳っている。そして習近平主席はこの理念を受け継ぎ、推進すると明言している。今後中国との間では、過去への反省をふまえあらゆるレベルにおいて交流をこれまで以上に活発化させ、これまで掛け違いになっていたボタンをかけ直し、和解を進めていく作業が必要となる。

(2) 韓国との和解の70年

ア 終戦から国交正常化まで

 1910年から終戦までの35年間、日本による韓国の植民地統治は、1920年代に一定の緩和もあり、経済成長も実現したが、1930年代後半から過酷化した。日本の植民地統治下にあった韓国にとり、心理的な独立を達成するためには、植民地支配をしていた戦前の日本を否定し、克服することが不可欠であった。1948年に独立した韓国は、サンフランシスコ講和会議に戦勝国として参加して日本と向き合おうとしたが、講和会議への参加を認められず、国民感情的に割り切れない気持ちを抱えたまま戦後の歩みを始めることとなった。更に韓国の立場を複雑にしたのは、冷戦下の国際情勢において、西側陣営の国として日本に協力しなければいけない状況に置かれたことである。同じ朝鮮半島でも、東側陣営に入った北朝鮮が、日本は拒絶する相手だと割り切ることができたのに対し、韓国にとり日本は理性的には国際政治において協力しなければいけない国である一方、心情的には否定、克服すべき相手であるという点でジレンマが生じることとなった。戦後70年間の韓国の対日政策は、この理性と心情の間で揺れ動いてきたものであると言える。

 日本と韓国は、1951年に予備交渉を開始してから実に14年間で7次にわたる本会議での交渉を経て国交正常化を達成するに至る。対日政策において理性と心情が交差する韓国にとり、1965年の日韓国交正常化は、朴正熙政権による理性的な決断であった。日韓請求権・経済協力協定において、日本は、朴正熙政権に、当時の韓国の国家予算の約1年半分に相当する5億ドルの経済協力(無償3億ドル、有償2億ドル)を提供した。同協定第二条は、日韓間の財産・請求権問題が「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と記している。

イ 国交正常化から現在まで

 朴正熙大統領が在任中の日韓関係では、金大中氏の拉致事件や朴正熙大統領暗殺未遂という韓国国民の国民感情を刺激する事件が起きたが、冷戦下における日韓協力を重視する朴大統領の現実主義的な考えの下、日韓関係は比較的安定していた。朴正熙大統領暗殺後においても、1970年代後半から80年代にかけて、日韓関係は安定的に協力関係を発展させる時期を迎える。特に80年代においては、日韓関係強化に積極的であった中曽根首相が全斗煥大統領との間で40億ドルの経済協力に合意し、これを契機とした全斗煥大統領の訪日により、日韓関係は大きく前進した。この時期日韓関係が前進した背景には、冷戦下の国際情勢において日本、韓国双方が様々な困難を克服して合理的な判断に到達したということがあった。

 1987年に民主化を達成した韓国は、1988年のソウル五輪を成功させ、経済成長と共に国際的な地位を高めていく。民主化され、強権的な政治体制ではなくなったことにより、韓国国内において理性ではなく心情により日本との関係を再考するための障害はなくなった。この時期、慰安婦問題に関心が集まるようになった。日本は1990年代前半から半ばにかけて河野談話、村山談話を発表し、韓国人元慰安婦に対して女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)による事業を行うなど、日韓間の距離を縮める努力を進めた。その後、1998年に大統領に就任した金大中は同年、小渕恵三首相との間で日韓パートナーシップ宣言を発表し、日韓両国が未来志向に基づき、より高い次元に二国間関係を高めていくことが合意された。日韓パートナーシップ宣言において、小渕総理は、「今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのおわびを述べ」、金大統領は、「かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である」旨表明した。

 しかし、この良好な日韓関係は金大中の後の盧武鉉政権において変化する。盧武鉉政権には「386世代」が数多く参加していた。1990年代に30代であり、80年代に大学を卒業し、60年代に生まれたこの「386世代」は、1980年代に理性を重視し、国内の心情を抑圧した強権的な政権に大いに反発していた世代であり、盧武鉉政権内において極めて反日的な理念を主張した。盧武鉉大統領は、就任当初は小泉首相との間で首脳のシャトル外交に合意する等の姿勢も見せていたが、やがて世論に押され、2005年3月の三・一独立運動記念式典における演説にて日本に謝罪と反省を求め補償の必要性にも言及するようになった。盧武鉉政権が対日姿勢を変化させた背景には、「386世代」が政権内で反日的な主張を展開したこともあったが、当時の日本側の動きが韓国の国民感情を刺激していた面もあった。また、2002年のサッカーワールドカップや日本における韓流ブームを通じて日韓国民間の交流は増えたが、同時に日韓双方の国民のお互いへの不満も蓄積されていった。相互交流が増えた当初、日本人が自分と同じ考えを持っていると期待した韓国国民は、歴史問題を始めとする諸課題につき、時間の経過と共に日本との感覚の違いが明らかになってくるにつれ、当初の期待が裏切られたと感じ、憤りを覚えるようになった。ただし、この感情は、韓国国民が日本人に対して一方的に抱いたものでなく、日本国民も同様に、当初同じ考えを持っていると期待した韓国人が、日韓基本条約を平然と覆そうと試みるのを見て、また法の支配に対する考えの違いに愕然とし、韓国人への不満を募らせていった。

 2008年に10年ぶりの保守系政権として李明博政権が誕生すると、日本は同大統領が理性に基づいた対日政策を選択し、盧武鉉政権で傷ついた二国間関係が改善することを期待した。李明博大統領は、日米との関係強化を推進し、未来志向に基づいた日韓歴史共同研究(第二期(第一期は2002年~2005年))を始める等、就任当初は理性に基づき日本との関係を管理するかに思われた。しかし、2011年8月に韓国憲法裁判所が、韓国政府が慰安婦問題について日本と交渉を行わないことは憲法違反であるとの判決を出すと、同大統領の対日政策は変化し、国民感情を前面に押し出して日本に接するようになる。同年12月に行われた日韓首脳会談において、李明博大統領は慰安婦問題につき日本が誠意を示すよう求め、また、2012年8月には竹島に上陸し、李明博政権末期には日韓関係はこれまでで最悪の状態に陥った。竹島については、自ら問題を大きくする意図は有していなかった日本であるが、李明博大統領による一方的な行動により、その態度は硬化することとなった。

 李明博政権の後半から悪化した日韓関係は、韓国政権が朴槿恵政権に替わっても、改善の兆しが見えない状況が続いている。朴槿恵大統領は、李明博政権下で傷ついた日韓関係の修復に取り組むどころか、政権発足当初から心情に基づいた対日外交を推し進め、歴史認識において日本からの歩みよりがなければ二国間関係を前進させない考えを明確にしている。盧武鉉、李明博という過去2代の大統領が就任当初は理性に基づいて日本との協力関係を推進したのに対し、朴槿恵大統領は、就任当初から心情を前面に出しており、これまでになく厳しい対日姿勢を持つ大統領である。この背景には、朴大統領の慰安婦問題に対する個人的思い入れや、韓国挺身隊問題対策協議会のような反日的な団体が国内で影響力があるということもあるが、それに加えて、韓国の中で中国の重要性が高まり、国際政治における日本との協力の重要性が低下していることが挙げられる。中国の重要性が高まった背景には、中国への経済的依存度の高さや朝鮮半島統一問題における中国への期待の高まりがある。

ウ 韓国との和解の70年への評価

 第2次大戦後の70年を振り返れば、韓国の対日観において理性が日本との現実的な協力関係を後押しし、心情が日本に対する否定的な歴史認識を高めることにより二国間関係前進の妨げとなってきたことがわかる。未だ成し遂げられていない韓国との和解を実現するために我々は何をしなければいけないかという問いへの答えは、韓国が持つ理性と心情両方の側面に日本が働きかけることであると言える。理性への働きかけにおいては、日本と韓国にとって、なぜ良好な日韓関係が必要であるかを再確認する必要がある。朴槿恵政権が中国に依存し、日本への評価を下げたことにより、同政権が日本と理性的に付き合うことに意義を見出していない現状を見てもこのことは明らかであろう。このためには、自由、民主主義、市場経済といった価値観を共有する隣国という側面だけではなく、二国間の経済関係やアジア地域における安全保障分野における日韓協力がいかに地域そして世界の繁栄と安定に重要かといった具体的事例を持って、お互いの重要性につき韓国との対話を重ねていく必要がある。朴槿恵大統領の日本に対する強硬姿勢は最近になり変化の兆しを見せており、経済界における日韓間の対話は依然として活発であるところ、政府間の対話も増やす余地はあると言える。

 心情への働きかけについては、日本は、特に1990年代において河野談話、村山談話やアジア女性基金等を通じて努力してきたことは事実である。そしてこれら日本側の取組が行われた際に、韓国側もこれに一定の評価をしていたことも事実である。こうした経緯があるにもかかわらず、今になっても韓国内で歴史に関して否定的な対日観が強く残り、かつ政府がこうした国内の声を対日政策に反映させている。かかる経緯を振り返れば、いかに日本側が努力し、その時の韓国政府がこれを評価しても、将来の韓国政府が日本側の過去の取組を否定するという歴史が繰り返されるのではないかという指摘が出るのも当然である。しかし、だからと言って、韓国内に依然として存在する日本への反発に何ら対処しないということになれば、二国間関係は前進しない。1998年の日韓パートナーシップ宣言において、植民地により韓国国民にもたらした苦痛と損害への痛切な反省の気持ちを述べた小渕首相に対し、金大中大統領は、小渕首相の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価し、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互い努力することが時代の要請であると述べた。にもかかわらず、その後も、韓国政府が歴史認識問題において「ゴールポスト」を動かしてきた経緯にかんがみれば、永続する和解を成し遂げるための手段について、韓国政府も一緒になって考えてもらう必要がある。二国間で真の和解のために韓国の国民感情にいかに対応するかということを日韓両国がともに検討し、一緒になって和解の方策を考え、責任を共有することが必要である。

(3)東南アジアとの和解の70年

ア 東南アジアとの和解の70年

 1945年に第2次世界大戦が終結してからの10~15年間は、東南アジアにおいて各国が独立を達成し、民族自決の機運が盛り上がりを見せた時期であった。東南アジアは19世紀末までにタイを除き全ての国が欧米により植民地化され、第2次大戦中は日本の支配下にあった。したがって、東南アジアの国々にとっては、独立時の喫緊の課題は経済発展を成し遂げ、名実共に自立することであった。大戦後、世界は自由主義体制と社会主義体制の間で冷戦に陥った。しかし、東南アジアでは体制選択の焦点は共産主義と民主主義ではなく、いかに国家建設・経済発展を実現するかにあった。こうした状況下、東南アジアでは独裁的な政権が上から国家建設・経済発展を推進しようとする開発独裁型国家が相次いで誕生した。1957年のタイにおけるサリット政権の誕生、1965年のシンガポール独立とリー・クアンユー政権の発足、同年のフィリピンにおけるマルコス政権誕生、1966年のインドネシアにおけるスハルト体制の成立と、東南アジアの多くの国々で上からの国家建設・経済発展が選択された。その一方、インドシナは冷戦の時代、事実上、戦争が続き、本格的な経済発展は冷戦終焉以降に始まった。

 日本は東南アジア諸国と賠償、準賠償協定を締結し、和解を進めた。経済発展を最優先事項とした当時の東南アジア諸国にとって、日本からの賠償、その後の経済協力は極めて大きな意味を持ち、日本と東南アジアの和解に大きな役割を果たした。また、日本企業も、1970年代以降、東南アジア諸国への直接投資と技術移転、さらには国境を越えた生産ネットワークの展開によって経済の相互依存関係が進展し、経済分野を中心に人的交流が活発化し、国民間の和解が進んだ。

 しかし、1970年代には、東南アジア諸国で日本の経済進出に対する反発もあり、これが1974年の田中首相の東南アジア歴訪時の反日デモ、反日暴動につながった。こうした動きに対応して、日本は1977年、福田首相が「福田ドクトリン」を発表した。「福田ドクトリン」は、日本が軍事大国にならないこと、東南アジア諸国との間で「心と心の触れ合う相互信頼関係」を築くこと、東南アジア全域の平和と繁栄に寄与することを謳い、東南アジアの国々に大きな安心感を与えた。また、同年に立ち上げられた日・ASEAN首脳会議は2014年で17回目を迎え、1970年代からこれまで脈々と強化されてきた日・東南アジア関係を象徴する存在となっている。

 日本との間で第2次大戦中の慰安婦問題が存在したフィリピン、インドネシアとの間では、1990年代のアジア女性基金の活動により、同問題に関する和解は大きく進んだ。このうちフィリピンでは、アジア女性基金から償い金が支払われ、日本政府による医療福祉支援事業が実施され、そして首相からのおわびの手紙が被害者の方々へ渡され、インドネシアでは高齢者社会福祉推進事業が実施されたことにより、慰安婦問題に起因する反日感情は大きく和らぐこととなった。

イ 東南アジアとの和解の70年への評価

 日本と中国、韓国との関係に比べ、日本と東南アジアとの関係は、この70年間で大きく改善し、強化された。この背景には、中国、韓国の国民の歴史において戦争、植民地支配の苦しい経験の中で、まさに日本が敵となっているのに対し、東南アジアの国々の国民の物語の中では、日本は主たる敵とされていないことがある。日本の支配下、たいへん苦しい思いをした東南アジアの人々は大勢いた。しかし、その前に長年にわたる欧米の植民地統治を経験していた彼らにとって、日本は第二、第三の植民地勢力であり、植民地支配と戦争の苦難が全て日本の責任であるということにはならなかった。

 シンガポールのリー・クアンユー元首相が、日本の第2次大戦中の行いにつき、「許そう、しかし忘れまい(Forgive、 but never forget)」と言ったように、東南アジアの国々では大戦中に日本がひどい事をしたという記憶は残っている。我々はこれに留意しなければいけない。第1次大戦後、世界的に民族自決の動きが高まっていたにもかかわらず、1930年代から日本はその潮流に逆らい帝国建設を進め、アジアのナショナリズムと衝突すると同時に英米を始めとする列強も敵にするという国策上致命的な過ちを犯し、アジアの国々の国民を傷つけた。

 インドネシアでは残留した日本兵が独立のために戦ったという事例もあった。しかしながら、膨大な数の犠牲者が出たフィリピンやシンガポールを始めとし、東南アジアの人々の中にも、大戦中、日本によって自分の親族や友人を失い、たいへん苦しい思いをした人が少なくないことを忘れてはならない。日本と東南アジアの国々は現在、非常に友好的な関係をもっているが、こうした経験は東南アジア諸国の国民の間で物語として今も受け継がれている。

 東南アジアの国々は日本が戦後一貫して平和路線を貫き、アジア諸国の発展に貢献してきたことを認識しており、日本との関係をとても大事にしている。東南アジアの指導者からは、「日本はどんな時でもサポートしてくれる。それが一番大事である。」という言葉をよく聞く。1990年代後半にアジア通貨危機が発生し、東南アジア諸国が破滅の危機にあった際、日本は多額の財政支援を行い、これらの国々の経済再建に少なからぬ貢献をした。最近の例で言えば、インドネシアのジョコ・ウィドド大統領が就任後初めて訪問したアジアの国は日本であったし、第2次大戦中に日本の戦場となり多数の犠牲者が出たフィリピンのアキノ大統領は、来日時の国会における演説で、「先の大戦は我々全員にとって悲惨なものであり、大戦がもたらした苦しみに対し、全ての人々が辛い思いを覚えました。しかし、その灰塵の中から我々両国民の関係が不死鳥のように蘇ったのです。」と述べた。戦後70年の間をかけて東南アジアで育まれた日本への信頼を大事にしつつ、同時に東南アジアの人々の心に残る大戦中の辛い思いに謙虚に向き合い、我々は東南アジアとの協力関係を今後一層強化していく必要がある。

有識者懇の報告書全文・5

5 20世紀の教訓をふまえて21世紀のアジアと世界のビジョンをどう描くか。日本はどのような貢献をするべきか。

(1)20世紀の世界が経験した二つの普遍化

 21世紀のアジアと世界はどうあるべきか、そして日本は理想的なアジアと世界の構築のためにいかなる貢献をしていくべきか。

 この問いに答えるために、我々は、20世紀における世界と日本の歩みを振り返り、そこから得た教訓について考えてきた。世界は、20世紀に二度の世界大戦を始めとする幾多の戦乱、植民地支配、革命、人権抑圧、ブロック経済を経験した。そして、これら対する反省を基に、平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援といった諸原則が広く共有されるようになった。この世界史の中で、日本は、1930年代から40年代にかけて、当時の国際的潮流に逆らう形で軍事力を行使してアジアにおいて膨張し、第2次世界大戦の大きな要因を作った。そして、この大戦に敗れた日本は、戦争に突入するに至った過程と戦中の様々な行為を痛切に反省し、戦後は、先述したような国際社会の共通原則に極めて忠実に生きることで、繁栄を実現した。以上の点は本報告書の第1章において前述したとおりである。

 このような国際社会におけるルールと価値観の転換が、20世紀の世界において非常に大きな変化であったという点は明らかである。しかし、我々は、21世紀のアジアと世界像を考える際に非常に重要な20世紀の世界におけるもう一つの大きな変化にこれまであまり触れてこなかった。それは、国際社会の構成員が20世紀を通して大きく変わったという事実である。

 20世紀初頭、世界は独立国家と植民地に大きく二分されていた。西欧、米国、ロシア、日本は世界を植民地にしていた。今では許されない価値観であるが、列強は、進んだ国々が、「野蛮」、「未開」の地域を文明化するために植民地化するという構図を世界で普遍化しようとした。しかし、この流れは、第1次大戦において、民族自決の理念が登場するとともに一旦停止することになった。そして、第2次大戦により、決定的な打撃を受けることとなった。

 第2次大戦後、戦勝国の植民地も宗主国に対して協力することによって戦後の独立を約束されるなど、独立への道を進んだ。英国、フランス、オランダなどの東南アジアにおける植民地も、日本の進出によって大きな打撃を受けた。戦後、英国、フランス、オランダは植民地支配の回復を目指したが、これを実現することはできなかった。日本はアジアの解放を意図したか否かにかかわらず、結果的に、アジアの植民地の独立を推進したのである。そして、新しく生まれた独立国に対し、日本は戦後、賠償さらに経済援助を通じて、その自立に協力していった。

 20世紀初頭、列強は、「文明化」の名目のもと植民地を支配し、帝国主義という自らの価値観を世界において普遍化しようとした。第2次大戦後の1950年代、60年代に植民地が苦難の末独立を達成し、民族自決が尊いものであるという価値観が確立され、世界に多くの主権国家が誕生した流れは、20世紀の世界における二つ目の普遍化であったと言える。

(2)21世紀における新たな潮流

 1960年代までに多くの植民地が独立を達成したことにより、世界中全ての国が平等の権利を持って国際社会に参加するシステムが生まれた。そして、新たな国際社会の繁栄の原動力となった諸原則が、平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援であった。この中で、国際社会でこれらの価値観の旗手となり、世界の繁栄をリードしてきたのは米国であった。そして日本は、米国と緊密に連携しつつ、国際社会の普遍的な諸原則を尊重し、推進することにより、自らの繁栄を成し遂げるとともに、世界の平和と繁栄に貢献してきた。今日の世界における多くの国々と日本の平和と繁栄が、20世紀後半のシステムの成果の上に成り立っており、この流れを21世紀においても維持することが非常に重要となる。とはいえ、今世紀に入り、世界では二つの新たな潮流が生まれてきている。

 まず、新興国の台頭と共に、世界秩序におけるパワーバランスが変化を見せている。IMFの経済予測によれば、2000年に66%であったG7の世界経済に占めるシェアは、2018年には45%に下がり、新興国が20%から42%に増加すると見込まれる。そして中国のシェアが2000年の4%から2018年に14%に上がるのに対し、北米、欧州のシェアが58%から2018年44%、日本のシェアが、15%から6%に下がると見込まれている。こうした中でも、米国は当面世界秩序をリードし、共通価値観の旗手としての役割を維持すると考えられるが、その力はこれまでのように他を圧倒するものではなくなっている。

 もう一つの変化は、中東やアフリカの一部に安定した国家建設が進んでいない現実があるということである。そこでは、国家の領域を越える様々な団体の動きが活発化しており、世界全体の不安定要因となっている。更に、グローバル化の進行とともに、宗教宗派対立、民族対立、各種のテロリズムといった形で脅威が多様化し、これまでの伝統的な安全保障の概念では対応できない局面が増えてきている。こうした新しい構造変化が、爆発的な人口増加と幾何級数的に伸びる情報通信技術の普及によってもたらされる世界のスピード化の中で起こっている。一方で、肯定的な意味での多様化にも目を向けたい。現在の世界では、民族や文化や宗教や政治体制を超えて人々が集まり、交流し、その集合の中から新たな価値や技術が生まれてきている。グローバル化の進展とともに脅威が多様化する一方、平和への貢献において、従来の国家や国際機関にとどまらず、非政府組織(NGO)など非国家主体が市民外交や紛争後の復興支援等に建設的な役割を果たしている。我々は、こうした非国家主体とも協力し、地域の安定化と国家建設に貢献していかなければいけない。

(3)世界とアジアの繁栄のために日本は何をすべきか

 21世紀の世界と日本の平和と安定のためには20世紀後半の国際的共存システムを維持することが非常に重要である。その一方、21世紀の世界における新たな潮流を前に、これからの日本には従来とは違う役割が求められてくる。米国の力が圧倒的でなくなり、国際秩序における不安定要因が多様化する中、日本はこれまで以上に積極的に国際秩序の安定に寄与する必要がある。

 まずアジアに目を向けたい。米国の国力が相対的に低下している中、米国がこれまで果たしてきたアジアの安定に絶対的な役割を担うことは難しい。かかる状況下、日本もこの地域においてバランスオブパワーの一翼として、地域全体の平和と繁栄に従来にもまして大きな責任を持っていくべきであろう。アジアには、平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援といった諸原則を日本と共有する国が多い。日本にはアジアにおいて、自由主義的なルールの形成を主導し、コンセンサスによって地域のシステム創成をリードしていく意欲が求められる。そして、ルールを作る際には、地域の関係国全てが納得する形で作ることが重要である。

 しかし、日本にとっては、第4章で述べたとおり、中国、韓国との間では和解が完全に達成されたとは言えず、和解を達成した東南アジア諸国においても、日本に複雑な感情を抱いている人々も存在する。さらに、その他の歴史問題も残っている。中国、韓国との間では地道に和解に向けた話し合いを続け、同時に東南アジアの国々には過去を忘れずに謙虚な態度で接することが重要である。

 当然のことながら、国際社会で日本に求められる役割はアジアにとどまらない。国際秩序の不安定要因が多様化する中においては、米国をはじめとする友好国と協力し、グローバルな課題にもこれまで以上の責任を負うことが求められる。第二章において、戦後日本が国際秩序安定への役割をいかに発展させてきたかを振り返った。21世紀の日本は、この流れを加速させ、更なる責務を負っていく必要がある。国際社会は、1990年代前半から脈々と発展してきた日本の積極的平和主義を評価しており、安全保障分野において日本が今後世界規模で従来以上の役割を担うことが期待されている。今後、日本は、非軍事分野を含む積極的平和主義の歩みを止めず、これを一層具現化し、国際社会の期待に応えていく必要がある。経済面における国際秩序の安定においても日本に期待される役割は大きい。21世紀に入り、世界では、地域経済協定が乱立し、新たに経済力をつけてきた国々が自分たちの基準を普遍化しようとする動きが出てきている。自由貿易という20世紀世界経済発展の根幹となったシステムを21世紀においても維持・進化させていくためには、多くの国が参加する普遍的なルール作りが求められる。現在交渉中の環太平洋パートナーシップ(TPP)協定は、アジア太平洋における普遍的な自由貿易のルールとなるが、これに加え、その影響力に陰りが見える世界貿易機関(WTO)の復権に日本が指導的役割を発揮し、全世界的な自由貿易システムの構築を目指すことも、国際経済秩序安定のために意義がある取組だと言える。世界の意思決定が分極化し、さらなる貿易自由化への旗振り役がいなくなった世界で、日本の責務は大きい。日本はTPPを超えて更に、アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)への動きを牽引していくべきであろう。

 上記の貢献策は日本が全く未経験の施策ではなく、戦後70年間に実績を上げてきた日本の国際貢献を拡大するものにほかならない。しかし、一国が国際的な役割を増大するに際しては、国内外で懸念や反対の声が出ることも珍しくない。日本政府は、国民に対しては、新たな貢献の意義につき十分に説明をして理解を得るよう努め、各国に対しては、日本は国際社会で共有された価値観に基づき関係国との合意によって物事を成し遂げていく国であることを丁寧に説明していく姿勢が求められる。

有識者懇の報告書全文・6

6 戦後70周年に当たって我が国が取るべき具体的施策はどのようなものか。

 本懇談会では、総理から提示を受けた論点に従い、20世紀の世界と日本の歩みを振り返り、これからの世界と日本の在り方につき考えてきた。これまでの議論を踏まえ、懇談会は、戦後70年に当たって日本が取るべき具体的施策につき、「歴史に関する理解を深める。」、「国際秩序を支える。」、「平和と発展に貢献する。」、「国を開く。」という観点から分類しつつ、以下の点を検討するよう提言する。

(1)「歴史に関する理解を深める。」

ア 近現代史教育の強化

 日本の近現代史の教育ははなはだ不十分であり、高校、大学における近現代史教育を強化すべきである。高校については、近現代史の科目を新たに設け、必修科目とすることが望ましい。その教育の内容については、日本史、世界史、政治経済、公民、地理等の専門家を集め、「世界の中の日本」の視点から、根本的に検討することが必要である。

イ 歴史共同研究

 世界各国の研究者が世界史やアジア史について共同研究を行う場を提供すべきである。これまで日本は、中国、韓国との間で二国間の歴史研究は実施してきたが、さらに各国の歴史について相互に理解を深めるとともに、グローバルな視点から過去を振り返るため、20世紀における戦争、植民地支配、革命などについて、多くの国が参加した形での歴史研究の実施をめざすべきである。

 さらに、21世紀の国際関係の在り方について研究する国際的なフォーラムを構築することが考えられる。これらの計画推進の主体は民間とし、政府が距離を置いた形で支援することが望ましい。

ウ アジア歴史資料センターの充実

 国立公文書館により運営されているアジア歴史資料センターについては、国内のみならずアジア諸国の学者からも高い評価を受けているが、現在取り扱われている資料は第2次世界大戦前のものに限定されているところ、戦後の資料についても収集、公開する必要がある。

エ 戦没者の問題への取組

第2次大戦中、多くの兵士が兵器や食糧を満足に支給されずに戦場へ送り出され、また、国民は空襲に晒され、多くの犠牲者が出た。遺骨収集等の戦没者の問題につき、政府は取組を強化しなければならない。

(2)「国際秩序を支える。」

ア 国連改革

 平和維持・紛争解決の中心的役割を担うべき国連安保理の機能が、最近低下している。従来より日本は国連安保理改革を主張してきたが、この努力を加速させる必要がある。

イ 貧困の削減

 国際社会における紛争や暴力の大きな原因となっている貧困の削減への取組を一層強化する。そのために、持続的な経済成長の実現を支援し続けることが重要であり、インフラ整備、貿易・投資の活性化、法制度整備、人材育成等の促進を図るべきである。この目標のためにも、対GDP比で約0.2%にとどまっている日本の政府開発援助(ODA)を増額する必要がある。更に、過去の教訓や成果を国内外で共有し、貧困対策の質についても、向上を図る必要がある。

ウ 人間の安全保障

 貧困、環境破壊、自然災害、紛争といった問題が国境を越えて相互に関連しあう今日の世界においては、従来の国家を中心に据えた対応だけでは不十分になってきている。個人が尊厳を持って生きることができるように、人間の安全保障の考えの下、環境問題、気候変動、自然災害への対策、人道支援や紛争によって影響を受けた人々の救済、ポスト2015年開発アジェンダ等の取組にこれまで以上に積極的に取り組むべきである。

 また国連難民高等弁務官事務所やユニセフ等の国際機関への支援をさらに強化するほか、日本国際協力機構(JICA)やNGOを通じ、日本の専門性や人材を活かした支援も充実すべきである。なお、不安定な地域への支援に当たっては、草の根レベルでの支援を通じた信頼醸成を促すことも必要である。

エ 国際社会における女性の地位向上と活躍推進

 女性の活躍推進のための国際協力、特に途上国支援を一層強化し、また各国との女性交流を促進する必要がある。

 また、女性と平和・安全保障の問題を明確に関連づけた初の安保理決議である国連安保理決議1325号の国別行動計画については、日本は未作成であるところ、政府と市民社会が連携して早期に策定し、実施及び評価を行っていく努力が求められる。

オ 軍縮・不拡散の推進

 これまで果たしてきた軍縮・不拡散における主導的な取組を一層強化し、国際社会の安定に更に貢献していくべきである。軍備、通常兵器の移転等の規制や、核兵器をはじめとする大量破壊兵器やその運搬手段などの関連物質・技術の拡散を防ぐことが日本の重要な国際貢献となる。

カ 文明間対話の促進

 人種・民族・宗教の違いが紛争の大きな原因となることが少なくないことに鑑み、日本は、イスラム世界等の他文明、他宗教との対話を更に深めていく必要がある。

(3)「平和と発展に貢献する。」

ア 安全保障体制の充実

 日米同盟が国際公共財としてアジア・太平洋の安定に寄与していることは広く認められている。日本は自らの防衛体制を再検討すると共に、この日米同盟をさらに充実する必要がある。

 なお、日米安保体制を支えるための負担が沖縄に過重になっていることにかんがみ、この負担を日本全体で担うための一層の取組が求められる。

 また、自衛隊は国際平和協力活動により積極的に参加し、世界の安定に貢献すべきである。その際、多様化・複雑化する現地情勢、PKO任務や復興支援、人道援助機関との関係について十分な研究が必要である。

イ 自由貿易体制の維持・進化

 自由貿易体制を維持・進化させていくため、日本は、現在交渉中の環太平洋パートナーシップ(TPP)協定に加え、アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)実現に向けた取組を牽引していくべきである。また、その影響力に陰りが見える世界貿易機関(WTO)の復権に取り組み、全世界的な自由貿易システムの構築を目指すことにも意義がある。

ウ 日本の知識、経験、技術をいかした国際社会への貢献

 日本の高度な産業技術を活用し、大学と民間企業が各国のインフラ整備への協力を促進することが重要である。

 また、日本が豊富な知識、経験、技術を持つ、環境汚染、気候変動、防災の分野において、官民双方において各国との協力を更に推進すべきである。

(4)「国を開く。」

ア 開放型社会への転換

 急速に進む世界の多様化に対応するためには、できる限り多くの国内規制を撤廃し、意識を改革して開放型の社会を作らなければならない。

イ 国際的な人材の育成

 国際社会において広く活躍できる人材の育成を強化すべきである。国連等の国際機関、非政府組織(NGO)、企業を含め、あらゆる分野で国際的に活躍できるような専門性と実務能力を持つ人材の育成に力を入れるべきである。また、若手の人材育成に加え、高度な専門家、幹部レベルの人材を効果的に発掘・活用していくべきである。なお、この観点で、青年海外協力隊の強化も重要となる。青年海外協力隊への参加者が減少する中で、政府、民間が一体となって、協力隊へ参加する魅力を高めることにより、優秀な人材を確保することも求められる。

ウ アジアとの青少年交流

 戦後50年を機に実施された、「平和友好交流計画」のように、アジア諸国との青少年交流をこれまで以上に活性化する必要がある。特に日本との間で和解が進んでいない国々との青少年交流を重点的に増やすことが重要である。
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